箱入り熟女

フリーライター松本史の日常とか箱入り熟女(三毛猫・18歳)に関する雑記帳。

世にも奇妙な森口くん物語

私が出会った妖精の話をする。

 

妖精の名前は森口くん。下の名前は知らない。出会ったのは私が20代前半の頃で、会社の先輩が皆、森口“くん”と言ってたので、私もそれに習ったが、たぶん森口くんは私より年上なんじゃないかと思う。

 

私はその当時、熊本の地方出版社に勤めていた。森口くんは、うちの会社にたまにやってくる小太りでメガネをかけた、おそらく発達障がいのある男性。突然ふらっと現れては、うちで発行している雑誌に関する感想や要望なんかをひたすらマシンガントークしていく。その大半は支離滅裂な話で、何を言いたいのか、何を要求しているのかよくわからない。ただ、とにかく記憶力が良く、うちで発行している雑誌の「◯号の◯ページに載っていた」とか、「◯◯◯◯と書いてあった」とか、そういうことはドンピシャで覚えている。作っている本人たちすら覚えていないようなことも覚えていて、さながらうちの雑誌の人間データベースのようだった。

 

森口くんが来たときは、H先輩が呼ばれる。H先輩は、いつも冷静で淡々としていながら、たまに発する鋭いツッコミに定評がある人だったが、森口くんに対しても冷静に淡々と対応しながら、たまに鋭いツッコミをして、私たちギャラリーを楽しませてくれた。発達障がいがある人を目の前にして、どう対応していいのか戸惑う人も多いと思う。私もその一人だ。だけどH先輩は、森口くんに対して構えず、フラットな位置から話をしながら、話が長くなってくると「業務に差し障りがあるから帰って」と言える人だった。まあ、そう言ってもなかなか帰ってはくれないのだが。

 

森口くんはうちの会社で人気者だった。森口くんにH先輩が対応していると、そこにだんだん人が集まってくる。編集部スタッフが、森口くんの支離滅裂な質問を一生懸命解読して答えようとしていたり、最新号の感想を聞こうとして意味不明な回答をもらったりしているシーンがよく見られた。あと森口くんは「ステッカーをください」とよく言うのだが、そのステッカーが何を意味しているのかわからないままに、皆で持っていたシールだったり付箋だったりメモ帳だったりをあげたりしていた。

 

実は森口くんはうちの会社にだけ来ていたわけではなく、熊本の他の出版社やテレビ局など、あらゆるメディアを訪問していたようだ。私がその事実を知ったのは、地元新聞社の出版部門に勤めていた友人と飲んでいたときだった。何かの流れで森口くんの話をしたら、友人が「それはもしかして、この前、うちに来た人と同じ人物じゃないか?」と言い始めたのだ。特徴を聞くと、森口くんに間違いない。森口くんは「新幹線の本を作りなさい」と話しに行ったようだ。ちょうど、新八代〜鹿児島間の新幹線が開通する時期だったので、提案内容として的が外れているわけではないと思うが、友人曰く「なかなか帰ってくれずに、対応した人が難儀していた」そうだ。

 

友人に「うちの会社では森口くんは人気者だ」という話をした。例えば、うちの会社が移転したとき、皆で「森口くんが新しいオフィスにやってこれるかどうか?」と心配していたエピソードを話すと、友人は感心したようにこう言った。

「おまえの会社、あったかいな」

ちなみに、確か移転して1年弱ぐらいで、森口くんは新しいオフィスにやってきた。いつもと変わらずマシンガントークをする森口くんを囲みながら、皆で「良かった、森口くんが来た。もう大丈夫だ」と喜んでいた。

 

ただ、うちの会社はあったかかったが、私はあったかくなかった。森口くんが来ると、少なからず業務に支障が出る。校了前のクソ忙しいときに、横で騒がれるのは本当に鬱陶しかった。だから、森口くんが来ても、私はその輪には加わらなかったし、「早く帰ってくれないかな」とばかり考えていた。

 

 

29歳になる年に、編集長として子育て情報誌を創刊することになった。子育ての経験なんてなかったが、 自ら望んで創刊編集長の座についたし、やる気は十分だった。それなりに仕事ができるという自負心もあったので、絶対売れる雑誌を作ってやる!と鼻息荒くイキっていた。

 

しかし、創刊まであと1か月、という時期に、その子育て情報誌の編集スタッフは、私と後輩Aのふたりだけだった。いや、もともとは4人いたのだ。私とAと、入社したばかりの新卒社員ふたりの計4人。その新卒社員が2か月ぐらいでふたり揃って辞めてしまったのだ。うちの会社はブラック企業だったし、なんならその当時の私もブラック上司だったし、創刊間近の雑誌編集部の仕事ももちろん超絶ブラックなものだった。今、振り返れば新卒社員が辞めちゃったのは仕方なかったなと思うし、私自身がそれを招いたところも大きいのではないかと反省している。

 

ただ、その当時は反省すらする暇がなかった。当時務めていた会社では、編集も広告営業も書店営業も全て、編集スタッフが担当していた。つまり、企画を立て、取材し、撮影も執筆もやるし、ラフもひく。広告営業もするし、取れた広告も自分で作る。そして書店営業も自分たちでやっていた。多分、多くの地方誌は今もこのスタイルでやっているのではないかと思うのだが、とにかく仕事量が半端じゃない。新卒社員が辞めたのと同時に中途入社を募集したが、そんなにすぐに来れる人は見つからない。

 

あと創刊まで1か月しかないのに仕事は山積みで、やってもやってもさらにその上に積み上がっていく。ふたりしかいないので、私がやっていなくて、Aがやっていなければ、その仕事は誰もやっていない。当たり前だ。朝から晩まで取材や営業で外を駆けずり回り、会社に20時ぐらいに帰って来てAと打ち合わせをし、それから原稿を書いたり、営業ツールを作成して、深夜に疲れ切って会社を出る日々が続いた。広告営業に行った先で、調子はいいけどケチな代表取締役から「いやー、俺なんて代表戸締り役だからさー。決裁権ないのよ〜」と広告を断られた日は、深夜に会社の戸締りをしながら「私こそ、代表戸締り役だ!!!!」と変な怒りを覚えたりもした

 

とにかく追い詰められていた。そんなときに、森口くんがやって来たのだ。

 

その日は珍しく夕方に会社に戻ってこれた。書かねばならぬ原稿を今晩、一気に片付けようと思っていた私は、もちろん森口くんを囲む輪には加わらず、自分の机で原稿を書いていた。だけど、呼び出されたのだ「森口くんが呼んでいる」と。

 

不審に思いながらAと一緒に行ってみると、森口くんは私とAにこう語りかけた。

「子育て情報誌ができますね。いい本です。日本の少子高齢化に貢献する本です。いい本です」

森口くんが子育て情報誌と連発するのを聞いて、皆が私とAを呼びにきてくれたのだ。ちょうどその頃、地元テレビ局でCMをうったり、自社媒体に新雑誌の広告を入れたりしていた。森口くんが何を見てくれたのかはわからないが、子育て情報誌を創刊するという我が社にエールを送りにきてくれたようだった。

 

なんだかよくわからないままに、Aとふたりで「ありがとうございます。がんばります」と繰り返していた。「いい本です。少子高齢化に貢献します」を繰り返しながら、森口くんはだんだん興奮していった。そして私も「いい本です」と繰り返されるうちに、だんだんうれしくなっていった。それが伝わったのかわからないが、森口くんは突然、モーニング娘。の『LOVEマシーン』を歌い出した。

 

いや、もうワケがわからない。ただ、ワケはわからないけど、なんだかとってもうれしくて、 すごく愉快な気分だった。うちの社員の輪の中で、森口くんは楽しそうに『LOVEマシーン』を歌って踊っていた。そして私たちも飛び跳ねながらWow Wow 、Yeah Yeah と叫んでいた。

 

「ニッポンの未来は」

Wow Wow  Wow  Wow

「世界がうらやむ」

Yeah Yeah Yeah Yeah

「恋をしようじゃないか」

Wow Wow  Wow  Wow

「Dance! Dancin' all of the night」

 

最後に興奮し過ぎた森口くんは、豪快なターンをして机にぶつかり、遠くまでメガネを飛ばしながら大きな音を立てて転んだ。皆であわてて駆け寄り、森口くんに怪我がないかを確認し、メガネを渡した。メガネをかけながら森口くんはこういった。

「ステッカーをください」

ステッカーぽいものは何もなかったので、私はありったけの付箋を、そしてAは机の引き出しにためていたたくさんのシールを持ってきて渡した。付箋とシールを手に入れた森口くんは、「いい本です。少子高齢化に貢献します」と再度、繰り返しながら帰っていった。

 

それから創刊まで、Aと私の合言葉は「森口くんが待っててくれる」だった。そして、子育て情報誌はちゃんと創刊した。創刊まで大変だったし、創刊してからはもっと大変だった。あまりにつらくて、深夜の会社で、なぜか立ったままカップラーメンを食べながら号泣した日もあった。今、考えれば笑えるが、いや、ほんといろいろつらかった。でも、同時に多くのことを学んだ時期でもあった。

 

 

創刊したあと、なかなか森口くんに会えなかった。うちの会社にはたまに来ていたようだが、ちょうど私が外出していたりとタイミングが合わなかった。会社にやって来た森口くんが子育て情報誌について言及したという話は聞かなかった。読んでくれたのかもしれないし、読んではもらえなかったのかもしれない。家族のおでかけやらファッションやらが中心で、少子高齢化に貢献しているとは言えない雑誌だったし。

 

ある日、小さな書店の前を通りがかり、次のアポまで時間があるので書店営業をしようと車を止めて入店した。家族経営の小さな店で、初めて入った書店だった。中年女性がレジにいたので、作っていた雑誌の最新号を見せながら「こんにちは、◯◯◯◯という熊本の出版社の松本と申します。うちでこの子育て情報誌を作ってるんですけど……」みたいな話を始めたときに、ふと私の視界の端に見覚えのあるシルエットが映った。

 

森 口 く ん だ ! !

 

森口くんは、基本的にママチャリで移動しており、うちの会社に来るときもママチャリでやって来る。かつ、熊本県内各所でママチャリに乗った森口くんをうちの社員が目撃している。あるときは、昼の12時に熊本市内をママチャリで爆走している姿を、14時に八代市内のコンビニにママチャリを止める姿を、そして15時に玉名市内でママチャリを押しながら歩いているところを目撃されている。もし、その目撃情報が全て本当ならば、12時に熊本市を出発し、2時間で約40キロ移動して八代市に、そしてその1時間後には約60キロ離れた玉名市にいることになる。いや、無理でしょ、そのママチャリ、エンジンでもついてんのかよ。だけど、みんな「自分が見た森口くんは絶対本物だ!」と譲らないのだ。だから、うちの社員が見た森口くんは、全て森口くんであることになっている。そこにどんな矛盾があろうとも。

 

まあ、それでいいのだ。うちの会社の社員にとって、森口くんは妖精なんだから。うちの雑誌を誰よりも熱心にチェックし、いいところをほめ、改善点を指摘し、そして最後に熱いエールを送ってくれるんだぜ。それが妖精以外の何者だと言うのだ。うちの社員が、同時多発的に森口くんを見かけたのは、それぞれがそのとき妖精が必要だったからじゃないかなと、私は思っている。

 

ただ、私が見た森口くんは、確かに森口くんだった。すぐ横の書棚の前で、微動だにせず熱心に本を立ち読みしている。これは見間違いようがない。「長い時間立ち読みしてるのかな? 怒られたりしないかな? 近くに住んでるのかな? 常連客なのかな?」と森口くんのことが気になって、レジの女性との会話が上の空になってしまう。ダメダメ、ちゃんと書店営業しなきゃ、と思った瞬間、女性がこういった。

「ごめんね、うち、明日で閉店しちゃうのよ」

 

初めて入った書店。立ち読みしている森口くん。その書店は明日閉店する。

 

なんだろ、この感じ。うまく言えないが、世にも奇妙な物語の主人公になったような気分だ。やっぱり、森口くんは妖精なんだろうな。

 

そして、その日が私が森口くんに会った最後の日になった。

 

 

数年後、私は転職して東京に引っ越した。今も東京でフリーライターとして働いている。熊本で勤めていた会社はすでにつぶれてしまったし、当時一緒に働いていた先輩や後輩、同僚たちも、それぞれの場所でそれぞれの人生を歩んでいる。東京に来たあとに森口くんの話は誰からも聞いていない。

 

たまに森口くんを思い出す。特に『LOVEマシーン』を聴くと必ず思い出して、楽しくなってしまう。もうきっと一生、森口くんに私は会えない。でも、あれ?と思う日があるんだ。

 

だって、さっき靖国通りを爆走していったママチャリに、森口くんそっくりの人が乗っていたんだもの。いや、違うな。あれは確かに森口くんだった。

 

そう、さっき私が靖国通りで見た森口くんは、絶対、本物の森口くんなんです。

 

 

 

 

 

 

 

100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい

大学生の頃、会ったこともない遠い親戚のおばあちゃんの話を聞いた。おばあちゃんは明治生まれで、90歳過ぎた頃に認知症になった。認知症になってから、おばあちゃんは不思議な話をするようになったらしい。それは、行ったこともないアメリカで暮らしている自分の話。

 

おばあちゃんは熊本の天草で生まれ、生まれた町内で嫁ぎ、アメリカはおろか、ほとんど天草からも出たことがない人だった。ただ、おばあちゃんには、アメリカに渡った従兄弟がいたらしい。認知症になる前のおばあちゃんから、アメリカの話を聞いた人は誰もいない。

 

私はその話を聞いて、胸がぎゅうっと締めつけられるような気がした。どれだけ憧れていたんだろう、どれだけ行きたかったんだろう。おばあちゃんが若い頃、アメリカは遠い、遠い国だったはずだ。行きたいと口に出すことさえ、大それたことだったろう。認知症になってはじめて、自分の思いを解放できたんだな、って。

 

結局、おばあちゃんはアメリカに行くことはないままに、100歳近くまで生きて亡くなった。

 

 

大学生の頃、私の口癖は「100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい」だった。あぁ、青い私。そこはかとなくブルー。だけど、本当にそう願っていたのだ。一世紀分の世の中を見たい、欲張りに生きていきたいって。だからおばあちゃんの話を聞いて、自分自身に誓った。

「やりたいことには全てチャレンジするし、行きたい場所にだって全部行ってやる」

ただ100年生きるだけではダメなんだ。貪欲に生きて、人生をドラマティックに変えていかないとダメなんだ。

 

さて、あれから20年ほど経ったが、私はあまりその誓いを守ってきたとは言えない。大変なのだ、やりたいことに全部チャレンジとか、行きたい場所に全部行くとか。金も暇も行動力もないのだ、そんな生き方を貫くほど。

 

あと、やりたいことや行きたい場所自体が、正直そんなにない。いや、正確に言えば、やりたいことも行きたい場所もあるにはある。例えば、南国育ちで一面の雪という風景に憧れがある私は、スキーやスノボを一度やってみたいなあと、ここ5年ぐらいずっと思ってる。数年前から登山にハマっているので、薬師岳や白馬岳、聖岳など行ってみたい山はたくさんある。ただ、何というか、その“やりたい”も“行きたい”も、切実さに欠けるのだ。やれたらいいなあとは思うけど、やれなかったとしても、まあそれはそれでと思う程度の、行けたらいいなあとは思うけど、行けなかったとしても、まあそれはそれでと思う程度の、やりたい、行きたい、なのだ

 

そしてもう、100歳まで生きるということへのリスクを、ある程度、自分ごととして考えられる年齢になってしまった。100歳まで健康でいられるのか? ボケたらどうする? それに未だ独身、子どももいない私だ。孤独とどう向き合うんだ? 何より金だ、老後の金なんかまだ用意できていない。

 

政府が「人生100年時代構想会議」なんてものを掲げる時代だ。リカレント教育なんて、リカちゃんの親戚みたいな言葉が飛び交ってるけど、それって生きてる間、ずうっと時代の変化に合わせて勉強しないといけないってことなんだぜ。というか、今だって時代の変化に対応できていないのに。つい最近、twitterを始めて、フォロワーが専門業者やヤフオクで買えるという事実に驚愕したぐらい、ウブなんだぜ、私

 

私は、大人になる過程で、ただ100年生きるだけでも難しいということを理解してしまった。しかも、この変化の激しい時代を、私はどうやってあと60年あまりも生き抜いていくんだ。このうえ、貪欲に生きて人生をドラマティックに変えるなんて、そんな目標を掲げるのは空恐ろしいのだ。私にそんなことできるわけない。

 

例えば、思い切ってスノボにチャレンジしたとしよう。思ってたより楽しいかもしれないし、全然楽しくないかもしれない。何をどう思うかはやってみないとわからないけど、ただ一つ言えるのは、スノボにチャレンジしても、それが私のこれからの人生に大きな影響は与えないってことだ。もしかしてスノボにハマって、冬は毎年、月に2回はスノボをしに行くようになるかもしれない。ただ、そこまでの話だ。人生をドラマティックに変えるほどのこと、例えばスノボで日本代表になって冬季オリンピックに出場、なんてことは、絶対に起こらないのだ

 

 

 そう、絶対に起こらない。

 

それなのに私は、亡くなる前に一度だけでも、おばあちゃんがアメリカに行けたら良かったのにと思ってしまうんだ。もしそれが実現していたとしても、おばあちゃんの残りの人生はほとんど変わらなかっただろう。だけど、行ってほしかったんだ。本当に鬱陶しい、余計なお世話なんだけど。

 

 

◆ 

 

 日々、やりたいことにチャレンジしたり、行きたい場所に出かけてみたり。それで人生がある日突然、大きく変わるなんてことはほとんどない。だけど同時に思うのは「人生って日々の積み重ねなんだよね」ってこと。スノボにチャレンジしたり、薬師岳に登ったりしたあとの私は、誰からも気づかれない、というか自分すら気づかないかもしれないけど、ほんの数ミリ、いや数マイクロ、数ナノぐらいは、多分、人生が変わっているんだと思う。

 

正直に言うけど、私は今だって青かった時代のままに「100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい」と願っている。そして、それを積極的に実現しようとしていない自分を恥じていて、言い訳ばかりしているのだ。金や暇がないせいや、時代のせいにしてやり過ごそうとしている。そして、そんな風にやり過ごす日々も、私の人生として積み重ねられているという事実に、時折、ハッとしながら生きている

 

私のやりたいこと、行きたい場所は、ふんわりしたものばかりだ。一生をかけて実現したいやりたいことだったり、人生の最後に記憶を改ざんしてしまうほどの行きたい場所だったり、そういう熱量はない。だけど、もしかしていつかそういうものに出会えるかもしれない。すごい熱量を持てる、やりたいこと、行きたい場所を見つけてしまうかもしれない。そしてきっとそれは、今やりたいことをやり、行きたい場所に出かけるなかで、いろんなことがリンクして見つかるんじゃないかとなんとなく思っているのだ。

 

だからやっぱり、もう一度、宣言する。

「やりたいことには全てチャレンジするし、行きたい場所にだって全部行ってやる」

多分、これからも私の人生はハシビロコウ並みの動きでしか変化しないだろう。だけど、それでいいのだ。毎日、小さなやりたいことにチャレンジし、行きたい場所に出かけることで、数ナノずつ変わっていけばいいのだ。きっと、また言い訳をする日もあるし、言い訳する自分を嫌悪する日もある。それも含めて、それでいいんだと思っている。

 

全ては叶わないだろうし、たぶんかっこわるくて後悔も多いだろうし、そして切ないかもしれないけど、だけど私はそうやって生きていけばいいと思っているんだ。

賃貸サイトで引き寄せの法則遊び

18歳で一人暮らしを始めてから、今の家は8軒目だ。平均すれば、だいたい3年に1度、引っ越していることになる。そう、大好きなんだ、引っ越しが。引っ越した街で、近くのスーパーのお買い得品を見極めたり、どのドラッグストアの品揃えが自分に合うか検討したり、近所の公園に集う人のクラスタを分析したり、馴染みになれそうな飲食店を探したり、そういうことがたまらなく好きだ。

 

ただ、すぐ飽きる。飽きるとすぐに、というか正直に言おう。家に飽きてようが、飽きてまいが、ライフワークのように、私は賃貸サイトで物件を検索している。まだ、ネットが普及していなかった時代は、賃貸情報誌をワザワザ買っていた。引っ越す予定がなくても、だ。

 

たまに、持ち家が欲しい熱が上がるときがある。ただ、私は知っている。私は家が欲しいんじゃない、環境の変化が欲しいんだ。家を買ってしまったら、引っ越せない。だから、私は家を買う選択をしないだろう。まっ、そもそも家を即金で買う貯金はないし、フリーの私はローンを組めないから、そんなことは考えなくてもよい。

 

とにかく、いつだって賃貸サイトを見ている。だから、都内の住んだことのない場所でも、ある程度、家賃相場を知っている。ただ、最近、気づいてしまった。私の知っている家賃相場は、私の住める条件の範囲内でしかないってことを。

 

そして、仄暗い遊びを思いついた。私を対象としていない賃貸物件を検索するって遊びだ。あっ、でもこれってあれにつながるかもしれない。引き寄せの法則ってやつ。望みが本当に実現すると信じ続けると現実になるって、あれね。本屋の一角にある、あの怪しげなコーナー。私も立ち止まって本を手に取ったことあるよ、メンタルがやられてた30代半ばに。私を対象としていない、って表現したけど、もしかしてこれはそういう物件に住めるようになるための、最初の一歩なのかもしれない。

 

いつも通り、賃貸サイトにアクセス。まず住むエリアは「千代田区、港区、中央区」の都心3区設定、家賃は「100万円以上」、条件は「ペットOK」のみ。いつもは「バス・トイレ別」とか「エアコン付き」とか、細かな条件設定をするんだが、100万円以上の物件にバスとトイレが一緒だとか、エアコンが付いてないだとか、そんな物件はない。たまに外国人仕様のスケルトンみたいになってるバス・トイレ一緒の物件はあるけど、それなら全然OK。一人暮らしなんだもの。基本的にバスだってトイレだって私しか使わない。洒落たバスローブとか買っちゃって、スケルトン、楽しむさ。

 

条件設定後、検索ボタンを押す。そしてもう一手間だ。デフォルトの並びは「おすすめ順」だが、それを「賃料が高い順」に並べ替える。だいたい1番目に表示されるのは六本木徒歩5分以内の物件だ。賃貸料は300万円代後半。広さはまちまちで100平米だったり300平米だったり。でもさ、100平米でも掃除大変じゃないか? だって30平米弱の部屋だって掃除するのに1時間以上はかかるぜ。その3倍強ってことは、3〜4時間? 私は毎週、土曜日の午前中に掃除すると決めているのだが、それだけで午前中、つぶれちゃうよ。いやいやいや、こういう物件に住むってことは、掃除を自分でやらないってことなんじゃないか? この貧乏人根性を根絶することも、引き寄せの法則の大切なステップだ。もっと、六本木徒歩5分300万円後半の物件に合う考え方をせねばならぬ。

 

気を取り直して、他の物件をチェックしてみる。おっ、白金台徒歩3分の一軒家があるじゃないかシロガネーゼの仲間入りだ(古っ!!)。それに高級マンションもいいけど、大豪邸っていうのも気分がいいな。なんと、6階建! 敷地面積が狭かったのを、高さでカバーしたのか。いやいや、ワンフロア100平米近くある。狭くないじゃん、1階だけでも持て余しちゃうよ。というより、これ1日で6階全部掃除するの大変じゃないか? そうか、1週間のうち6日間使って、毎日1フロア掃除していけばいいのか。そうすれば、週に1日は休める。ありがたい。いやいや、だから掃除は自分でしないって、さっき誓っただろう、私。

 

都心の物件に飽きたら、茅ヶ崎、鎌倉、逗子、葉山あたりで検索。おぉ、この葉山の物件スゲー。高台にあって、海が一望。プールも付いてるし、何部屋あるんだ? 数えきれねえ。でもプールって掃除、大変じゃないか? いや、だから、私!!!!

 

そして今日も私は賃貸サイトにアクセスする。東京23区以内、できれば都心に近い区が希望、8万円以内、バス・トイレ別、エアコン付き、25平米以上、駅徒歩15分以内、ペットOK物件を探している。今、ほんのり希望しているのは、最寄駅の近くにSEIYUがあること。いつだってカカクヤスのSEIYUラブ❤️。

 

そうさ、これは実現させるぜ! 私の引き寄せパワー、見せてやる!!! 

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役に立たない相棒が愛おしい件

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昨日の夜、今年になってから初めてちびが猫ベッドで寝ようとしていた。猫ベッドとは、寝室の押入れの下段に置いてある洗濯カゴにブランケットを敷いたもので、夏は、そこが彼女の定位置になる。どうやら、うちの中で一番ひんやりした場所のようだ。

 

冬の間、ちびは人間用のベッドにやってきて布団に潜り込み、私の腕まくらで寝る。頭の位置によっては手が痺れてかなわないので、腕まくらをするふりだけして腕を外して寝るんだが、朝起きると不思議にキッチリと腕まくらをさせられている。人間ならばウザい彼女だが、猫だから私もまんざらじゃ無い。

 

だいたいにおいて、彼女は私を信用し過ぎる。冷え込む夜に、トイレから戻ってきたちびは私の顔をなめて起こし、布団に入れろ、と要求する。寝ぼけながら布団をめくると、冷えた柔らかな体がスルリと入ってくる。肉球も冷たい。思わず私はちびの後ろ足を束ねて手で握って肉球を温める。ちびはそんな私に完全に体を預けて、すぐさま眠りに入る。

 

しかし、考えてみれば、自分の体より数十倍でかい動物に足の自由を奪われ、なぜそんなに安心できるのだ。同じ状況に自分が置かれることを想像すると、私ならば恐怖しか感じない。でも、ちびは悠然と眠っているのだ。

 

数年前から、寄る年波には勝てず、ちびはいろいろ病気を併発している。今は朝晩の投薬、週に一度の皮下点滴、そして月に一度の動物病院通いが欠かせない。そして、それは全部、ちびにとっては苦行だ。

 

たまに私が旅行や出張で留守にするときには、ペットシッターさんを頼む。今お願いしているシッターさんは、とても猫の扱いに長けた人で、今のところその人以上は見つけられないだろうと思っている。

 

そんなベテランシッターさんなのに、ちびはシッターさんの投薬を拒否することがあるらしい。どちらかといえばおとなしい、のんびりやの猫だ。なのに、シッターさんが投薬しようとすると、「シャー!!!!!!!」と威嚇するそうで。私はちびが威嚇をするところを、動物病院で月に一度爪を切ってもらうときぐらいしか見ない。それも最近になってからだ。以前は動物病院ではただただ怯えていただけだった。月に一度通うようになって数年、やっと威嚇する勇気が出たようだ。動物病院の先生からもおとなしい猫としてお墨付きをいただいていて、ちびが威嚇したって先生は意に介さない。全くもって威嚇の意味を成していない

 

私が投薬するときはどうかというと、口をこじ開けると、舌をくるりと巻いて薬を入れさせまいとする。ただ、2秒ぐらいしか舌を巻けないので、結局すぐに薬を放り込まれ、そのあとはギュっと口を閉じられて喉をさすられ、薬を飲み込まされる。その一連の流れの間、だいたいちびは機嫌よくグルグルと鳴いている。ちょっと頭が弱い、そこがたまらなくかわいい。

 

動物病院の先生に投薬で苦戦しないか?と聞かれたときにこの話をしたら「さすが、ちびちゃん」と褒められた。猫の投薬で悩む飼い主は多いらしい。ん? 多分、褒められたと思ってるんだけど、違うのか? さすがアホですなー、という意味か?

 

ちびは今年で18歳になった。私は親元を16歳で離れたので、今では親より長く一緒に暮らしている。ペットに対して、自分のことをママと表現する飼い主が多いが、私はちびのママだとは思っていない。相棒、という方が、しっくりくる。

 

この相棒、全くもって役に立たない。ドラマの『相棒』では杉下右京をそのときどきの相棒が助けてくれるが、私が大量の仕事で疲弊しているときも、クレーム処理に奔走しているときも、彼女は何もしてくれない。というより、どんなに疲れて帰ってきても、やれメシはまだか、トイレを掃除しろ、撫でろ、もう触るなほっとけ、いややっぱ撫でろ……。全ての要求を通させられる。落ち込んでいたら飼い猫が慰めてくれた、的な話がよくあるが、あれは飼い主の幸福な勘違いだと私は思っている。猫は猫なのだ。快適に暮らしたいという欲求だけを主張しながら、ヤツらは生きている。

 

昨晩、私は人間用のベッドの上で、猫ベッドに体を丸めるちびの気配を感じていた。ああ、もう夏が近づいたんだな。いや、まだ夏というには早すぎないか? 布団に潜り込むほど寒くはないが、春と秋は私の枕元で寝るじゃないか。まだ春だぜ、夏はまだまだ先じゃないか。約半年ぶりに私はベッドを占領して寝ている。ちびに気を使って寝返りできなかったり、顔に当たるヒゲがくすぐったくて変な方向に首を曲げたりする必要はない。のびのび寝ればいいじゃないか、私。

 

 

◆◆◆

 

 

 

ダメだ、眠れない。。

眠れないからトイレに行った。まだベッドに入って40分しか経っていず、全く必要もないのにトイレに行った。ベッドに戻るときに、猫ベッドに寄った。そっとちびを撫でると、びっくりしたように「ニャー」と鳴いた。もう一回撫でて、おとなしくベッドに戻る。

 

しばらくすると、ちびが起き上がる気配がした。一縷の望みにかけながら待っていると、ヒタヒタという足音がして、ベッドの上に飛び乗ってきた。そして布団に入れろという。やはり腕まくらを要求される。重い。しばらくすると、やっぱり暑かったのか布団から出て、私の枕の4分の3を占領して丸くなって眠り始めた。頭の半分以上、枕からはみ出しながら、私は柔らかなお尻に顔を埋めた。そうしたら、急に睡魔が襲ってきた。

 

微睡みながら、ぼんやり考える。

「そうか、私を寝かしつけに来てくれたんだな」

これもまた、幸福な勘違いなんだろう。

 

あといくつの冬を、私は腕まくらできるんだろう。虹の橋を渡るとか、そういうストーリーを今、私は読むことができない。読まないことにしている。そんなもの、考えたくない。

 

私の相棒は役に立たない。何の手助けもしてくれないし、手間はかけさせられるし、かつ全く稼がない上に年間の医療費は私の医療費の10倍以上だ。ただ、相棒は私を馬鹿みたいに信頼している。私が生まれてからこれまでに他人から寄せられた信頼を全て足しても、彼女から寄せられる信頼には足りないだろう。全く役に立たないけど、私にとってはとびきり愛しい相棒だ。役には立たない、でも彼女が私を心底信頼してくれることが、私をいつも柔らかな気持ちにさせてくれる。

 

そう思うと役に立っているのか? いや、やっぱり役になんか立たなくていいのだ。

相棒はそこにいる。それだけでいいんだ。

 

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