箱入り熟女

フリーライター松本史の日常とか箱入り熟女(三毛猫・18歳)に関する雑記帳。

100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい

大学生の頃、会ったこともない遠い親戚のおばあちゃんの話を聞いた。おばあちゃんは明治生まれで、90歳過ぎた頃に認知症になった。認知症になってから、おばあちゃんは不思議な話をするようになったらしい。それは、行ったこともないアメリカで暮らしている自分の話。

 

おばあちゃんは熊本の天草で生まれ、生まれた町内で嫁ぎ、アメリカはおろか、ほとんど天草からも出たことがない人だった。ただ、おばあちゃんには、アメリカに渡った従兄弟がいたらしい。認知症になる前のおばあちゃんから、アメリカの話を聞いた人は誰もいない。

 

私はその話を聞いて、胸がぎゅうっと締めつけられるような気がした。どれだけ憧れていたんだろう、どれだけ行きたかったんだろう。おばあちゃんが若い頃、アメリカは遠い、遠い国だったはずだ。行きたいと口に出すことさえ、大それたことだったろう。認知症になってはじめて、自分の思いを解放できたんだな、って。

 

結局、おばあちゃんはアメリカに行くことはないままに、100歳近くまで生きて亡くなった。

 

 

大学生の頃、私の口癖は「100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい」だった。あぁ、青い私。そこはかとなくブルー。だけど、本当にそう願っていたのだ。一世紀分の世の中を見たい、欲張りに生きていきたいって。だからおばあちゃんの話を聞いて、自分自身に誓った。

「やりたいことには全てチャレンジするし、行きたい場所にだって全部行ってやる」

ただ100年生きるだけではダメなんだ。貪欲に生きて、人生をドラマティックに変えていかないとダメなんだ。

 

さて、あれから20年ほど経ったが、私はあまりその誓いを守ってきたとは言えない。大変なのだ、やりたいことに全部チャレンジとか、行きたい場所に全部行くとか。金も暇も行動力もないのだ、そんな生き方を貫くほど。

 

あと、やりたいことや行きたい場所自体が、正直そんなにない。いや、正確に言えば、やりたいことも行きたい場所もあるにはある。例えば、南国育ちで一面の雪という風景に憧れがある私は、スキーやスノボを一度やってみたいなあと、ここ5年ぐらいずっと思ってる。数年前から登山にハマっているので、薬師岳や白馬岳、聖岳など行ってみたい山はたくさんある。ただ、何というか、その“やりたい”も“行きたい”も、切実さに欠けるのだ。やれたらいいなあとは思うけど、やれなかったとしても、まあそれはそれでと思う程度の、行けたらいいなあとは思うけど、行けなかったとしても、まあそれはそれでと思う程度の、やりたい、行きたい、なのだ

 

そしてもう、100歳まで生きるということへのリスクを、ある程度、自分ごととして考えられる年齢になってしまった。100歳まで健康でいられるのか? ボケたらどうする? それに未だ独身、子どももいない私だ。孤独とどう向き合うんだ? 何より金だ、老後の金なんかまだ用意できていない。

 

政府が「人生100年時代構想会議」なんてものを掲げる時代だ。リカレント教育なんて、リカちゃんの親戚みたいな言葉が飛び交ってるけど、それって生きてる間、ずうっと時代の変化に合わせて勉強しないといけないってことなんだぜ。というか、今だって時代の変化に対応できていないのに。つい最近、twitterを始めて、フォロワーが専門業者やヤフオクで買えるという事実に驚愕したぐらい、ウブなんだぜ、私

 

私は、大人になる過程で、ただ100年生きるだけでも難しいということを理解してしまった。しかも、この変化の激しい時代を、私はどうやってあと60年あまりも生き抜いていくんだ。このうえ、貪欲に生きて人生をドラマティックに変えるなんて、そんな目標を掲げるのは空恐ろしいのだ。私にそんなことできるわけない。

 

例えば、思い切ってスノボにチャレンジしたとしよう。思ってたより楽しいかもしれないし、全然楽しくないかもしれない。何をどう思うかはやってみないとわからないけど、ただ一つ言えるのは、スノボにチャレンジしても、それが私のこれからの人生に大きな影響は与えないってことだ。もしかしてスノボにハマって、冬は毎年、月に2回はスノボをしに行くようになるかもしれない。ただ、そこまでの話だ。人生をドラマティックに変えるほどのこと、例えばスノボで日本代表になって冬季オリンピックに出場、なんてことは、絶対に起こらないのだ

 

 

 そう、絶対に起こらない。

 

それなのに私は、亡くなる前に一度だけでも、おばあちゃんがアメリカに行けたら良かったのにと思ってしまうんだ。もしそれが実現していたとしても、おばあちゃんの残りの人生はほとんど変わらなかっただろう。だけど、行ってほしかったんだ。本当に鬱陶しい、余計なお世話なんだけど。

 

 

◆ 

 

 日々、やりたいことにチャレンジしたり、行きたい場所に出かけてみたり。それで人生がある日突然、大きく変わるなんてことはほとんどない。だけど同時に思うのは「人生って日々の積み重ねなんだよね」ってこと。スノボにチャレンジしたり、薬師岳に登ったりしたあとの私は、誰からも気づかれない、というか自分すら気づかないかもしれないけど、ほんの数ミリ、いや数マイクロ、数ナノぐらいは、多分、人生が変わっているんだと思う。

 

正直に言うけど、私は今だって青かった時代のままに「100歳まで生きて、一世紀分の世の中を見てから死にたい」と願っている。そして、それを積極的に実現しようとしていない自分を恥じていて、言い訳ばかりしているのだ。金や暇がないせいや、時代のせいにしてやり過ごそうとしている。そして、そんな風にやり過ごす日々も、私の人生として積み重ねられているという事実に、時折、ハッとしながら生きている

 

私のやりたいこと、行きたい場所は、ふんわりしたものばかりだ。一生をかけて実現したいやりたいことだったり、人生の最後に記憶を改ざんしてしまうほどの行きたい場所だったり、そういう熱量はない。だけど、もしかしていつかそういうものに出会えるかもしれない。すごい熱量を持てる、やりたいこと、行きたい場所を見つけてしまうかもしれない。そしてきっとそれは、今やりたいことをやり、行きたい場所に出かけるなかで、いろんなことがリンクして見つかるんじゃないかとなんとなく思っているのだ。

 

だからやっぱり、もう一度、宣言する。

「やりたいことには全てチャレンジするし、行きたい場所にだって全部行ってやる」

多分、これからも私の人生はハシビロコウ並みの動きでしか変化しないだろう。だけど、それでいいのだ。毎日、小さなやりたいことにチャレンジし、行きたい場所に出かけることで、数ナノずつ変わっていけばいいのだ。きっと、また言い訳をする日もあるし、言い訳する自分を嫌悪する日もある。それも含めて、それでいいんだと思っている。

 

全ては叶わないだろうし、たぶんかっこわるくて後悔も多いだろうし、そして切ないかもしれないけど、だけど私はそうやって生きていけばいいと思っているんだ。