箱入り熟女

フリーライター松本史の日常とか箱入り熟女(三毛猫・18歳)に関する雑記帳。

臆病な父への賛歌

1990年4月、私は熊本市内にある県立の女子校に入学した。入学式が始まる前に講堂に1年生が集められ、学年主任が壇上に立った。開口一番、学年主任は怒鳴った。

「目立つなーー、出る杭は打たれる!!」

そして、本校の生徒としてあるべき姿、という話を始めた。うちの学校は、“熊本の偉い人のお嫁さんを育てる学校”なのだそうだ。その威圧的な声、言っていることのくだらなさ、私は強い嫌悪感を抱いた。

 

その学年主任は大嫌いだったが、まあ普通の高校だったと思う。節々に語られる「良妻賢母教育」には閉口したけど、時代の感覚もあっただろうし、今では致し方ないと思っている。ただ、やっぱり私は学校に馴染めなかった。いじめられたわけでもないし、友だちができなかったわけでもない。でも、いつもどこか違う場所に行きたい、という気持ちを抱いていた。

 

私の成績はみるみる間に落ち込んだ。それを合わなかった高校のせいにするほど、もう子どもじゃない。単に私には、その当時、目標がなかっただけだ。高校時代は親元を離れ、下宿していたのも、それに拍車をかけたんだと思う。居心地の悪い場所にいて、目標のない私は、自分を立て直すきっかけを全く探そうとしなかった。だけど、違う場所に行きたかったのだ。動き出そうとしないくせに。

 

高2のときは特にひどかった。学校に行くのが面倒くさくて、昼休みから学校に行った。なぜ、昼休みからだったかと言えば、昼休みには合唱部の練習があったからだ。昼前に下宿を出て、音楽室に直行し、そこで弁当を食べ、練習が終わったら、教室で昼からの授業を受けた。今考えてみれば、下宿で弁当を食べてから音楽室に行く方が効率的だと思うのだが、弁当は学校で食べるもの、という自分の感覚を頑なに守っていた。

 

あるとき、いつものように午前中に下宿でゴロゴロしていた。ちょうど学校で1限目が始まった頃だ。外でなにやらおじさんが怒鳴る声がする。うるさいなあ、と思っていたのだが、途中で「ん?」と気づいた。おじさんは私の名前を連呼しているのだ。

「まつもと、まつもとふみ、出てこーい!!」

下宿の2階の部屋から、窓を開けて見下ろすと、ママチャリに乗った担任がいた。

「こらっっ!! 学校に来んか!!」

「次の授業から行きまーす」

その日もやっぱり昼休みから学校に行ったことを記しておく。

 

 高2の3学期のテストで、私は学年で後ろから5番目だった。あと4人もいる、と思っていたけど、500人もいれば同じ点数の子もいるだろう。多分私の後ろには4人もいなかったし、もしかして誰もいなかったかもしれない。通知表は親には見せなかった。保護者がコメントを書く欄があったけど、白紙のままで印鑑だけ押して学校に戻していた。

 

高3になって、焦りのようなものが出てきた。大学には進学する気だったし、このままではヤバイとやっと気づいたのだ。ただ、勉強のやり方すらすでにわからなくなっていた私は、とりあえず学校に朝から行くことにした。幸いなことに(?)、詰め込み式の教育で批判の多かった母校には、高3からは全生徒が強制的に受けさせられる朝課外と夕課外、そして希望者のみ受ける夜学というシステムがあった。下宿に帰ってから勉強なんて絶対しないという自信があった私は、毎日夜学を受けることを選択した。

 

朝7時30分から夜8時15分まで学校で勉強をさせられるという、自主性のかけらもない受験対策で乗り切ろう、と思ったのだ。正直、授業を聞いていても、全くわからないことは多かったし、もともと苦手だった理数科目は、本当に苦痛だった。だけど、とりあえず学校にだけは行った。他に自分でやれることが思いつかなかったから。

 

5月に高3になって初めての三者面談があった。担任と私と父は、目の前の暗澹たる成績表を眺めていた。我ながら見事なまでに希望を奪う成績表だ。担任曰く、このままではどんな大学にも受からない、でもまあ高3になってから勉強しようとしていることは認める、ただまだ全然勉強量が足りていない、もっとがんばれ、云々……。そんな感じで三者面談は終わった。父は終始、黙っていた。

 

三者面談のあと、父とふたりで学校近くの喫茶店に行った。のん気にケーキを食べている私を見ながら、父はおもむろに話し出した。

「高2のときは、担任の先生が下宿に呼びに来てくれたりしたんだろ」

は? なぜ知っている、そんな話を!

 「通知表も見せてくれんかったもんなー。印鑑だけ押して学校に戻してたんだろ」

なんと、高2のときの担任の奥さんが、父の取引先の社長の奥さんと姉妹で、担任→担任の奥さん→社長の奥さん→社長→父、というルートで、私の状況は全て筒抜けだったと言うのだ。実の娘のあんぽんたんなエピソードを取引先の社長から聞かされる父。なんと不憫な……。返事に詰まっている私に、父はこう続けた。

 

「お母さんはその話を聞いて、カッカしとったけど、お父さんが史には何も言うな、って言っとったったい。きっと今、史は自分でもどぎゃんしたらいいのかわからんくなっとるけど、必ず、自分で自分を立ち直す。今、怒ったりしたら、それこそ逆効果だ。史が自分でどぎゃんかしようとするまで何も言うな、って」

なんとも言えない感情が、私の心に押し寄せて来た。罪悪感と自分への不甲斐なさ、だけど言い訳もしたいという自己防衛心。いろんな感情が混じって、結局、私は何も言えなかった。

「高3からは学校には行っとるらしいな。まあ、がんばれ」

父はそう言って帰って行った。

 

これをきっかけに私は変わり……、となると美しい話だが、まあ、そんなにできた子どもではなかった私は、やっぱり最後まで下宿では勉強しなかったし、ただただ学校にだけ通って、結局、第一志望の大学には受からず、あまり行きたくなかった大学に進学した。就職浪人もしたし、最初に勤めたのはブラック企業だったし。そして今はしがないフリーライターだ。私が高3のあの時に、自分を立て直せたのかは、今も疑問だ。

 

大人になってから、父のこの話をすると、皆から言われる。「いいお父さんだね」って。特に子どもを持つ男性からは、ある種、感動してもらえることもある。「子どもを信じるってすごいね、俺も見習おう」みたいな。そういうとき、私はこう伝える。

「いや、ただの親バカですよ。なぜ、私を信じるって思います」

本当にそう思っていた。うちの父は親バカだなあって。

 

40過ぎて、私もあのときの父の年齢に近づいた。そうなってから、ちょっと考えることが変わってきた。父は親バカだったというより、臆病だったのかもしれない。私は小さな頃からパパっ子で、父は基本的に私に甘い。多分、父にとって私はとてもとてもかわいい娘であり、私に嫌われるようなことはしたくなかったんじゃないか。娘を信じる、という美しい理論で自分をごまかし、私に何も言わないでいい方法を選んだのではないか。そう思うと、いろんなことがスッと落ちるのだ。ダメな娘とダメな父。カエルの子はカエル。そして同時に強い愛おしさに包まれる。

 

子育て情報誌や教育情報誌など、これまで親の悩みをテーマにした雑誌に長く携わってきた。“子どもを信じる”という手法は、どんなときも正論として語られる。それは確かにそうなのだと思う。だけどたくさんの親を取材してきて、「それはわかってるけど、でも……」という声も数多く聞いた。そして皆、「やっぱり子どもを信じられない自分が悪いのか?」と無限ループのような悩みを抱える。

 

私には子どもがいないので、親としての本当の気持ちは理解していないのかもしれない。ただ、悩むその自分の姿をそのままに受け入れたらいいんじゃないかな、と思うのだ。だって、子どもが親の愛情を本当に理解するのは、親も弱い人間である、ということを理解したときだから。

 

私は父が臆病だったのだ、と気づいた今こそ、父に強く感謝している。父がたくさん悩んだことを理解したからこそ、そこに父の親としての強い愛情を感じるのだ。今、なお私は下宿でゴロゴロしていた高2の頃と、全く変わっていない。目標はあやふや、怠惰でなかなか行動しないくせに、どこか違う場所に行きたいと願っている。まだ、私は人生を立て直せていない。その事実に落ち込む日は、父は臆病だったんだな、とぼんやり考える。それが不思議なぐらい、自分を鼓舞してくれるのだ。

 

未だにダメな娘の私だけど、ダメなりにやってみようともがいているつもりだ。そんな私を、父は黙って、臆病に今も見守ってくれている。父が棺桶に入る前に、立ち直った私を見せる自信は皆無だ。だいたい、何をもって人生が立ち直ったと言えるのか、私にはその回答がまだない。だけどさ、まあ生きていきますよ、毎日、それなりにちゃんと。

 

だからやっぱり、ずっと臆病に見守っててほしい。それが、未だダメな娘からのお願いなのです。